二、日本人の死生観と朱子学

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内容出处: 《朱子学年鉴.2016》 图书
唯一号: 130820020230002332
颗粒名称: 二、日本人の死生観と朱子学
分类号: B244.7
页数: 5
页码: 171-175
摘要: 本文记述了日本人的死生观有多种多样,受到了古代神话、浄土教、仏教葬礼等不同因素的影响。然而,江户时代末期的儒教思想家柳田国男指出,尽管大多数日本人在葬礼上采用了仏教仪式,但他们并不完全接受仏教的轮回和极乐往生的观念。相反,他们认为死者的灵魂将继续存在,并在子孙的祭祀中保持联系。在这种观念中,死者既不轮回也不成佛。此外,朱子学在日本的儒教思想中发挥了重要作用,以朱子学为基础的死后世界观在17世纪中叶开始形成并与神道的概念相混淆。总之,朱子学对于日本人的死生观产生了影响,并成为日本朱子学研究的一大课题。
关键词: 日本儒教学会 死生观 仏教仪式

内容

人は死んだ後、どこへ行くのか。天国•極楽浄土•地獄のような他界に赴くのか、それとも神的な存在となって現世に留まるのかあるいは近代の「科学的」世界観が説く如く、消滅してそれきりなのか。そして、こうした死後の世界の構想は、この生をいかに生きるかという問いへと連動してくる。このような死と生との捉え方を、日本では多く「死生観」とよぶ・。日本の思想文化全体と同じく、日本人の死生観もまた、良くいえば重層的であり、悪くいえば極めて曖昧である。古代神話における死者の国(黄泉国)への恐れや、平安時代における浄土教系仏教の流行など、、日本人の死生観は時代ごとに極めて異なった姿を見せるが、今日の日本人の平均的な死生観を決定づけた最も重要な契機は、やはり江戸時代における徳川幕府による全国民への仏教の強制である。これにより日本人の死に関する儀礼(葬・祭)は仏教式で行われることになった。幕府が瓦解し、信教の自由が認められた近現代でもなお、大多数の日本人の葬祭は仏教式である。ならば徳川時代以降、日本人の死生観は仏教一色に塗りつぶされてしまったのか。そうではない。日本人の習俗を調査し、日本民俗学の基礎を築いた柳田國男(1875~1962)⑶は、大半の日本人は形式的には仏教の葬送儀礼を受容しつつも、観念の上では輪廻や極楽往生といった仏教の一般的な死後観を承認していないと主張した(『先祖の話』1946)〇柳田によれは,、日本の「常民」(農村で稲作を営む平均的な日本人)の死生観は、死後も神として現世にとどまり、子孫の祭りに応じて定期的に来臨し、いつまでも子孫を見守り続けるというものである。ここでは死者は輪廻することも成仏することもな・い。こうした柳田の説に対しては、仏教は日本人の死生観と葬祭とに決定的な影響を及ぼしているという反論もあり⑷、充分な結論が得られていないのが現状である。
  そして如上の死生観は、日本において極めて現代的な問題と化している。大家族から核家族(単婚小家族)への急速な移行や、長引く不況による世帯年収の減少は、家族単位で営まれる葬儀の形を抜本的に変えつつある。伝統的な仏式葬儀の虚飾を批判する宗教学者•島田裕巳の『葬式は、要らない』(幻冬舎、2010)というセンセーシ크ナルな書籍が大きな反響を呼び、仏式の葬儀に代わってキリスト教式•神道式•無宗教式といった新しい形式の葬儀が増加しつつある(総体的に見ると薄葬化の傾向が著しい)。大手スーパーの葬儀業界への参入や、国際的な通信販売会社による葬儀への「僧侶派遣」事業の開始も、葬儀の商業化•形式化として深刻に受け止められた。またさらに、国際問題として焦点化して久しい靖国神社も、“国に殉じた大を神として祀る”という一定の死生観にもとづいた施設であって、それが日本人の伝統的な死生観からして自然なものであるのか、それとも近代に入ってから作為されたイデオロギーに過ぎないのかという問題が、識者たちの論戦の重要な一論点を構成している。
  で、は、このように錯綜し、かつアクチ그アルな日本人の死生観に対して、朱子学はどのような影響を及ぼしたのか。ここまでの概略に瞭然な通り、“日本人の死生観”を論じる際に言及される二大因子は仏教と神道(基層信仰)であって、朱子学ではな・い。それゆえ日本人の死生観と朱子学との関わりについては従来、十分な顧慮が払われていなかったのである。しかるに本年、この関わりを後付けた労作が上梓された。本村昌文『今を生きる江戸思想一十七世紀における仏教批判と死生観』(ぺりかん社、2016.9)である。徳川幕府の統治はちょうど17世紀の初頭(1603)にはじまり、前述の通り公の宗教政策としては仏教が行われたが、開幕とともに活動を開始した儒者たちは、彼らが尊崇し、依拠した宋学者たちに倣って仏教批判を展開した。彼らの仏教批判は、一般に朱熹たちの排仏言説の単なる「焼き直し」「受け売り」にすぎないといわれ、概して独創性に乏しいものとされる。しかし本村は、17世紀の日本儒者たちの著作を丁寧に検討し、そこに日本儒者独自の思惟と意義とを見出している。本著で扱われるのは、中江藤樹(1608~1648)、林羅山(1583~1657)、松永尺五(1592~1657)、清水春流(1626~?)、向井元升(1609~1677)、熊沢蕃山(1619~1691)、中村惕斎(1629~1702)といった有名無名の儒者たちの専門的な著作と、「仮名草子」とよばれる一般大衆向けの啓蒙書とである(漢文の読解能力が僧侶や儒者のみに限定されていた近世前期社会にあって、仮名で書かれ、内容も平易で通俗的な仮名草子は、かえって本格的な漢文儒書以上の社会的な影響力を有していた)。本村によると、これら十七世紀の儒教文献の中には、1640年頃を境にして、大きな変化が認められるという。すなわち、17世紀前半の儒者は、人間の死後の問題にはほとんど言及することなく、“仏教は倫常道徳を解体する「異端」の教えであり、現世の人倫を成立させる教えとしては儒教が最勝である”という、韓愈以来の排仏言説の常套形を用いて仏教を批判した。このように「いまをいかに生きるか」(p.51)という関心に集中した儒教教説を、本村は〈生の教説〉と呼ぶ。しかし十七世紀の半ば以降になると、儒者たちは仏教の輪廻や極楽往生の説を批判し、気の聚散や鬼神の来格を説いて、積極的に朱子学に基つ’く死後の世界を語り始める。これを本村は〈生死の教説〉と呼んでいる。このように1640年頃を境として、〈生の教説〉から〈生死の教説〉への移行が見られると本村は結論づけるのである。それが開幕後半世紀ほどのタイミングで生じた理由については、戦乱の終息と社会の安定の中で、一つには「キリスト教や異国の宗教に惑わぬように人びとを教化するという意識」(p.291)が儒者たちに目覚めたためであり、もう一つには「人々が死後
  のことに不安や恐れを抱き、また死生の根幹を理解していないという認識」(p.292)が生じたためと分析されている。安定と平和を取り戻した社会の中 で、公権力によって強制された仏教的死生観を越えた死生観が模索され、朱子学の教説が大きな存在感をもったのである。
  本村によると、当時の日本人儒者が朱子学の死生観の根本典拠として繰り返し参照したのは、死後の気/魂魄の聚散や、同一気の子孫の祭祀による感格を説く『朱子語類』巻三•第十九条である。ここで日本儒者の死生観が朱子の「受け売り」に留まらないのは、日本儒者たちが朱子の議論の中で“気の散逸”を意図的に捨象し、むしろ“死後の霊魂の不滅”を強調してゆく点である。道徳的に律された生を生きた人は、死後も消滅することなく、超越的な存在としてこの世界に留まり、とりわけその本性は子々孫々に無窮に受け継がれてゆく。朱子の議論から日本人が読み出したこうした死生観は、神道の語彙や概念と混淆してゆく。本村は本書終章で、同じく17世紀半ばに仏教とは異なる死生観を語り出した神道家•吉川惟足(1616~1694)の死生観を取り上げ、、それが朱子学ではな、く「神避」「長隠」「日少宮」など神道の語彙を用いて語られたものでありなが、ら、「使用するタームは異なるものの、死後の霊魂がどこかへ回帰し永続するという思考の枠組みは、本書で検討してきた十七世紀中葉において形成された朱子学をベースとした死生観にも共通する」(p.293)と指摘している⑶。すでに瞭然であるカヾ、こうした死生観は、柳田が分析した日本人の民俗的死生観とも極めて似通っているのである。「日本人固有」とされ、「神道的」とされる死生観と、朱子学の死生観との思想的な交渉過程については、これからの日本朱子学研究の一大テーマとなるであろう。
  なお、本村の著作は死生観についての書物の上に記された教說を分析したものであり、死生観が具体的に実践される儀ネ.Lの上までは及んでいない。本村が教說の上での転機とした1640年からおよそ30年遅れて、1670年頃に、儀礼の上での儒教的死生観の転機が訪れる。日本の先進的な政治家や儒者たちによって、『朱子家礼』に基づいた実際の儒葬が試行され始めるのである(その大半は幕府の禁圧によって頓挫した)。まず寛文12(1672)年に会津藩主・保科正之(1611~1672)の儒葬が幕府の抵抗を押し切る形で斎行され、続いて天和2(1682)年には日本随一の淳儒•山崎闇斎(1618~1682)の儒葬があり、遅れて元禄13(1700)年には朱舜水(1600~1682)を賓師とした水戸藩主•徳川光囹(1628~1700)の儒葬が行われた。こうした儀礼としての儒葬については、2012年の本稿で紹介した田世民『近世日本における儒礼受容の研究』(ぺりかん社、2012)がある。こちらの儀礼面でもやはり、朱子学式の葬儀が次第に国粋意識の高まりとともに神道式の葬儀へと換骨奪胎されてゆく過程が見られる⑹のが極めて興味深〉ゝ。
  注释:
  [1]以上の内容は、ほほ、「日本儒教学会設立趣意書」と同旨であり、「趣意書」は日本儒教学会ホームページにて閲覧できる(ただし日文のみ、http:// nichijyu.gakkaisv.org/ )。
  [2]シンポジウムでの各登壇者の発表内容については、2017年2月にweb上で学会員に公開予定の『日本儒教学会報』創刊号に掲載される。
  [3]ただし、柳田は近世後期にイ厶教を激しく排斥した平田篤胤(1776~1843)の国学思想の影響を濃厚に受けており、日本人の精神世界におけるイ厶教の重みを相当割り引いて捉えている点には、注意が必要である。
  [4]代表的なものとして、佐藤弘夫(東北大学教授)は柳田的な死生観を、日本人の古来の観念ではなく「江戸時代以降に徐々に形成された観念」に過 ぎないものと捉え、他界への退去、すなわちイ厶教的浄土への往生が広く信 じられていた中世や、平然と遺骸を遺棄していた古代など、日本人の死生観の多様性・重層性を強調している(『死者のゆくえ』岩田書院、2008 )。
  [5]ただしそもそも、吉川惟足自身力ヾ、朱子学からの決定的な影響を受けて成立した神道思想の一派である吉田神道に属する人物であることも考慮しなくてはならない。吉田神道の大成者であり、中世後期の神道界を支配した吉田兼倶(1435~1511)以来、朱子学と神道とは不可分の関係だったの である。
  [6]近世日本における『文公家礼』に基づ‘く儒葬から神葬への移行過程については、近藤啓吾『儒葬と神葬』(国書刊行会、1990)がその概要と豊富な具 体的事例とをともに載せ、先駆的かつ基礎的な研究をなした。その後、神道学の立場から研究が深められ、その成果として加藤隆久編『神葬祭大事典』(戎光祥出版、1997)が編纂された。本辞典の「神葬祭のあゆみ」「「神 葬祭」九つのキーワード」のうちに、朱子学の葬祭についての多くの言及 が見られる。
  (作者单位:日本皇学馆大学)

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朱子学年鉴.2016

《朱子学年鉴.2016》

出版者:商务印书馆

本年鉴内容设特稿、朱子学研究新视野、全球朱子学研究述评、朱子学书评、朱子学研究论著、朱子学研究硕博士论文荟萃、朱子学界概况、朱子学学术动态、资料辑要9个栏目。

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